興醸社 社史

 

創業期 1950年 10月5日

 

茨城県水戸市白銀町(現・南町)に、株式会社興醸社は創業されました。昭和25年(1950年)10月5日のことです。

 

明治時代、茨城県小川村(現・小美玉市)にて肥料業を営んでいた幡谷弁吉のもと、次男として生まれた庄次郎は、家業を離れ、【幡庄醤油店】を起業します。以後、順調に業績をのばすものの、世界恐慌、さらに大東亜戦争の勃発など苦難がつづき、長男・哲郎に家督をゆずった頃には、運転資金に苦しむ零細企業となっていました。

 

その後、戦争は終結し、無事復員した哲郎のもと、醤油製造も軌道にのります。そんな中、幡庄醤油店をはじめ多くの企業が原料資材の調達に苦戦します。戦後、餓死者もでる程の騒然する社会にあって、一刻も早い社会の安定のため、食品の流通をになう卸売り業の起業が求められていました。哲郎は、自らの理念を熱く語り、県内醸造業界の皆様に賛同をえ、出資をあおぎ設立されたのが、興醸社でした。

 

社名の由来は、【醸造ヲ興ス】。

食をつうじ、「お客様」「社員」「メーカー」に新しい価値を創造し、共に成長することを目的としています。企業活動を通じ、おいしく安全な食品と共に、「笑顔」を食卓にお届けすることが、創業以来、変わらぬ我々の願いです。

 

味の素 特約店のあゆみ

 

戦後の混乱のなかで

昭和20年代の日本は、戦争がおわり、平和な時代が始まったものの社会は混乱のまっただなかにありました。多くの問題が山積するなか、人々の一番の悩みは、食糧不足にありました。食品加工を手掛けるメーカーの多くは、消費者から求めがあったとしても、そもそも材料が手に入らない苦しい状況が続いていました。

 

 

 

味の素㈱の特約店として

明治41年池田菊苗博士は、昆布の美味しさを研究するなかで、それまで考えられていた甘味、酸味などの4元味に加え、5つ目の味の構成物質を発見します。これが、グルタミン酸ナトリウムです。これを売り出すために設立されたのが味の素株式会社(当時・鈴木商店)の歴史です。アミノ酸の1つであるグルタミン酸ナトリウムは、鈴木三郎助(創業社長)によって「味の素」と命名され、爆発的にヒット。大正6年にはニューヨーク事務所が開設されるなど、世界的に広まり、現代までその歩みは続いています。

 

大東亜戦争終結後、食糧事情が改善するに従い、人々の美味しさを求める声もたかまり、「味の素」も人気商品となります。ただし流通事情は、こうした声を吸収できず味の素では、全国に安定した販売網を構築するため、地域ごとに特約店制度(基幹販売店)を整備、株式会社興醸社も、茨城県代行店の1つとして、選ばれることとなりました。

 

「味液」(アミノ酸液)の販売へ

「味液」は、大豆を加水分解した溶液で、開発当初は、「味の素」の副産物であり、使い道もみつからず会社としても持て余していたそうです。そんな中、アミノ酸液(商標「味液」)が、醤油醸造や加工食品の製造に適していることが見直され、副産物だったアイテムが、人気の商材として引っ張りだこになりました。こうした状況に目をつけた幡谷哲郎社長は、特約店の地位を活かし、県内各地でアミノ酸液の拡販に成功。食糧不足がつづくなか、美味しく安全な食品づくりの一助を担うこととになりました。その後、哲郎社長は、味の素の特約店会(東部味液会)の会長に就任し、業界の中で、一目おかれる存在となりました。

 

本社移転と、外食業態への挑戦

 

2代目社長 幡谷誠

創業者であった幡谷哲郎は、昭和54年に他界します。その前、婿養子になっていた幡谷誠は、赤字に転落していた幡庄醤油店の廃業に着手。また手狭になっていた水戸市白銀町(現南町)の本社を移転し、新たに水戸市城南に倉庫と本社を建設しました。

 

昭和40年代、食生活の変化は激しく、創業以来、興醸社がお手伝いしてきたお得意先さまも次々に廃業を選択されていきます。時おなじく、売り上げの主軸になっていた「味液」の販売量も激減することとなりました。20代で社長を就任していた誠社長は、外食業態への販路拡大に挑戦します。

 

特約店であった味の素からも、外食むけの商材「味の素」「ほんだし」「ハイミー」が販売が開始され、県内外食問屋さまに拡売することとなりました。また昭和50年代には、「アルギンZ」が登場し、飲料部門がつくられ、その後、自動販売機が街中に置かれる時代となると、興醸社も、フォローを増やし、県内各地、津々浦々まで、看板車が走りまわることとなりました。

 

ひたちなか物流倉庫と再出発

 

平成5年 ひたちなか本社完成

カルピス社が、味の素の傘下に入ると、「カルピスウォーター」を新発売され、空前のヒットとなります。興醸社の売り上げもそれに伴い増加します。飲料や自販機のフォローの仕事は、人出だのみの大変な仕事です。売り上げが増えるとともに、水戸駅南での展開は限界をむかえ、本社移転の必要に迫られます。そこで、ひたちなか山崎工業団地内に、物件を確保。興醸社は2度目の本社移転をし、新しい時代に突入することとなりました。

 

 

自販機部門の苦戦

興醸社では、カルピス社、ついでキリンビバレッジと、特約をむすび、最盛期には、2億超の売り上げと、500台の自販機をフォローを担いました。しかし競合他社との競争にくわえ、本業であった調味料部門とのシナプスを活かす道に苦戦し、慢性的な赤字に悩むこととなりました。平成15年、ひたちなかでの10年に渡る挑戦にひとくぎりをし、飲料部門を、ダイドードリンコ社さまに営業譲渡。創業以来の加工部門での再出発を余儀なくされました。

 

興醸社の再挑戦

 

 

ひたちなか市から、3度目の本社移転をした興醸社。平成22年には、三代目社長として幡谷哲太郎が就任し、加工食品問屋として、挑戦をつづけています。

 

販売品目についても、お客様のニーズにあわせる形で販売品目を拡大させ、取扱いメーカーは100社以上、商品アイテムも1万種をこえるまでになっています。10年単位でみると、狂牛病や、違法添加物の問題など、食の安全を求める声が高まり、それに伴い、販売店としての地力を試される場面も多くなっています。

 

興醸社では、営業マン一人ひとりの提案力をあげるために、惣菜管理検定の受験を義務付けている他、各メーカーさまと協力し、お客様の商品づくりのお手伝いをつづけています。

 

 

東日本大震災と法人の意義

 

被災体験と法人としての意義

平成22年、突如としておこった大震災は、興醸社はもちろん、多くのお得意先に未曾有の被害をもたらしました。沿岸部には津波がおしよせ、また福島に近いエリアではやむなく廃業を選択された得意先もありました。画像は、旧本社・ひたちなか市山崎にほど使い道路の様子です。大きく被災した道路は長い間、通行止めとなりました。同じように茨城の各地で幹線道路は遮断され、物資が不足する事態となりました。

 

本社をおく水戸は震度6強の劇震。とくに埋めたて地であった駅南エリアの被害はすさまじく、なんとか社屋の倒壊は食い止められたものの、事業継続に不安がよぎります。そんなか、鉄道や高速など流通が遮断された街にあって、在庫として保管してきた食材の需要が高まります。電気、水道がSTOPするなか、お客様の求めに応じ、多くの商品を提供させていただきました。

 

その後も、混乱する流通事情を補う形で、社員総出で、お得先さまへの商品供給をつづけます。当時、スーパーの売り場は開店休業状態でした。そんな中、売り場にならぶ数少ない商品は、地元資本のお得先さまが製造するものだけです。売上や利益を度外視し、商品供給につとめた私たちの取組が少なからず実った瞬間でした。

 

当たり前のことは、当たり前じゃない

東日本大震災は多くの人命や財産を失う一方、当社にとっては、曖昧になっていた事業領域と、社会への貢献を思い出させるきっかになりました。発災当時は、1/3ほどに落ち込んだ売り上げも、その後の復興需要と共に回復。決算としては過去最高(当時)のものになっています。情けは人のためならず。多くの教訓と共に、お客様との関係を更に強固とした震災は、その後の売り上げ増に貢献する取組となりました。被災をきっかに、興醸社は食の流通で、また多くの地元企業の仲間達が、それぞれの事業領域で汗をかきつづたことで、地域(水戸)の復興の一助となりました。グローバル化が進み、苦戦する地方にあって、社会の一隅を照らす、私たち中小企業の役割と、その意義は今後さらに高まることでしょう。

 

社会への貢献

興醸社は昭和25年の創業以来、70年をむかえ、事業を通じ、食卓に安心・安全な食材を提供してきました。そして令和と改元された本年、新たにコーポ―レートポリシー(社訓)を定め、更なる社会貢献に挑戦します。被災した3月11日の夜、ボロボロになった実家に帰り、電気もとまり庭でたき火をしながら家族で食べた煎餅の味は一生忘れられない思い出です。戦後間もない頃、起業を決意した創業者・哲郎の想いも、そんな素朴な風景を大事したいという思いでした。

 

食卓に笑顔を届ける、その使命達成のために、本業に関してはこれまで以上の提案力を身に着けお客様の商品づくりをお手伝いしていきます。更に社会への貢献として、「家訓づくり」を広げる活動をつづける家訓二スト協会さま、そしてハミングバード未来基金さまのサポートすることで、圧倒的な貢献活動を実施してまいります。 

 

これまでも、これからも、私たち興醸社の挑戦に、お心を寄せていただくことを祈念します。